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2012年05月26日
生きていることを証明するにはどうしたらいい?
キャリアブレインが平日毎日発行している、「医療介護CBニュース」というメールマガジンがあります。毎朝目を通しているという人もいらっしゃるかもしれません。
そのメルマガの最後の方に「記者のこぼれ話」というコーナーがあります。ニュースにはならないけれども、取材をしていた感じたことや日常のことなどを、何人かの記者の方が日替わりで書いているものです。
ちょうど昨日(2012/05/25)のメルマガに載っていた「こぼれ話」ですが、これがすごかった。何がスゴイかと言えばまずはそのボリューム。一般的に「こぼれ話」といったタイトルのコーナーであれば、最後の方にちょっとだけ書かれているというイメージがありますが、まるでこのメルマガのメインコンテンツになるんじゃないかというくらいありました。
そしてその内容に、またいろいろと考えさせられました。
こんな書き出しで始まるのですが、そんなに重い文章でないのにも関わらず、その中身に関しては「う〜ん」とうなるだけでなかなか説明ができないのです。
だって「生きていることを証明する」なんて、普段なかなか考えないですよね…。全文はこちらから閲覧が可能ですので、興味のある方は読んでみてください。
「あなたは生きていることを証明できるか」、CBニュース記者さんのブログ - 医療介護大会議
このメールマガジンの「こぼれ話」。今回のように考えさせられるものから、時に下らなさ過ぎて笑ってしまうものまで(失礼!)いろいろです。毎朝の密かな楽しみにどうぞ。登録はこちらから。
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それから、先ほどの「こぼれ話」もそうなのですが、キャリアブレインが運営している「医療介護大会議」というサイトも、参加型の見所あるサイトです。
医療介護 医療・介護を国民的議論に - 医療介護大会議
ご存じの方もいらっしゃるかもしれませんが、実はこのブログも参加しています。
ブロガー、熊谷 信さん - 医療介護大会議
▽ 死ぬときに人はどうなる 10の質問
そのメルマガの最後の方に「記者のこぼれ話」というコーナーがあります。ニュースにはならないけれども、取材をしていた感じたことや日常のことなどを、何人かの記者の方が日替わりで書いているものです。
ちょうど昨日(2012/05/25)のメルマガに載っていた「こぼれ話」ですが、これがすごかった。何がスゴイかと言えばまずはそのボリューム。一般的に「こぼれ話」といったタイトルのコーナーであれば、最後の方にちょっとだけ書かれているというイメージがありますが、まるでこのメルマガのメインコンテンツになるんじゃないかというくらいありました。
そしてその内容に、またいろいろと考えさせられました。
日常のささいな話から、「オフレコですが…」で始まる驚きの事実まで、取材先で取材テーマとは直接的に関係のない「こぼれ話」を耳にすることが、よくあります。先日、ある病院の医師から聞いた「こぼれ話」が、個人的にはかなり衝撃的だったので、以下にご紹介させていただきたいと思います
こんな書き出しで始まるのですが、そんなに重い文章でないのにも関わらず、その中身に関しては「う〜ん」とうなるだけでなかなか説明ができないのです。
だって「生きていることを証明する」なんて、普段なかなか考えないですよね…。全文はこちらから閲覧が可能ですので、興味のある方は読んでみてください。
「あなたは生きていることを証明できるか」、CBニュース記者さんのブログ - 医療介護大会議
このメールマガジンの「こぼれ話」。今回のように考えさせられるものから、時に下らなさ過ぎて笑ってしまうものまで(失礼!)いろいろです。毎朝の密かな楽しみにどうぞ。登録はこちらから。
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それから、先ほどの「こぼれ話」もそうなのですが、キャリアブレインが運営している「医療介護大会議」というサイトも、参加型の見所あるサイトです。
医療介護 医療・介護を国民的議論に - 医療介護大会議
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▽ 死ぬときに人はどうなる 10の質問

23:20
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「曖昧なサイエンス」とのことですが、サイエンスはその性質上発展途上である以上、曖昧なのは当たり前でしょう。
確かに、臓器移植の際に移植元の遺伝子に乗っ取られる場合に自分が消失する現象も見られることは記事の通りあるでしょうが、なにも自分が消失するのは臓器移植に限らず「洗脳」という形で社会生活上よくあることじゃないですか?大なり小なりで。
考えてみると、確かに、「自分が生きている」事の証明は困難です。ただ、「自分が生きていない」ことの証明は、同様に困難なのではないでしょうか?なので、「自分は生きているか生きていないのかわからない状態」と考えることも、論理的に不可能ということはできないでしょう。
ただ、少なくとも私に関しては、「上記内容を考えて、かつ、文章にしている私が存在している」という事実から、私が生きていることの証明(少なくとも疎明)はできたものと考えています。HYと匿名ですが(笑)
この医師に関しては、
「そんなことを考える暇があったら、医師としての仕事をちゃんとしろよ。」
あるいは、
「そんな中途半端な考えをするくらいなら、哲学といった人文科学系の勉強、あるいは、法学といった社会科学系の勉強を、きちんと体系的に行えよ。」
と言ってやりたいところです。
若いうちは気にならない、ばからしいと思うことが、40・50と年を追うごとに気になって考えが変わってくるんですよね。
死が見えてくるようになるんですよね、きっと。
生きてる事、死ぬかもしれない事。
自分の生きてきた人生。
案外人は悩むもんです。
ただ、悩みって、主観的なものだと思います。
言い方を変えれば、悩みは独りよがりのものであり、それで全く問題ないと思います。ただ、それを表明さえしなければ。あるいは、表明するとしても、多くの人が悩みを共感できるよう、客観性を備えた上でうまく表現できれば。
ところが、本記事のDr.や記者は、「あなたは生きていることを証明できるか」などと、あたかもその悩みが客観性が充分あるかのような(皆がこの問題について悩んで当然といった)書き方をしつつ、その一方で、その悩みが自然科学の分野からの「ローカル」な発想にとどまり、人文科学的・社会科学的客観性を備えていない点に対しては、正直、ストレートな表現で申し訳ないのですが、「大きなお世話だ」「一人で勝手に悩んでろ」と言わざるを得ないところです。それに、最低限、デカルトくらいは援用すべきではないでしょうか?
まあ、Dr.がどうこういうよりも、記者の書き方(特にタイトル)が良くないのかもしれませんが。
コメントありがとうございます。
決して記者の肩を持つわけではないですが、引用した手前、記者の方の名誉のために書いておきますが、あくまで「こぼれ話」です。
「あなたの悩みをズバリ言い当ててあげました」とか、皆の共通の疑問だから、それを世に問いかけようとか、そういった類のものではないでしょう。
そういう意味では、ボリュームとしてはありますが、箸休め的なコラムとしては十分成立しますし、私のように「なかなか面白い!なんとなく気になるなぁ…」という人が一人でもいたら、それでいいのではないでしょうかね。
私も子供の頃同じ事で考えを巡らせました。
方法序説が出る前のもっと昔から考えられている事でしょう。何千年経っても、未だになるほどと、多くの人が理屈で納得できる様な答えを聞いた事がありません。答えが無いんでしょう。
私が思うに、人に限らず、生きている事なんて大した意味は有りません。地球の裏で蝶が羽ばたこうが一緒です。
仮に「生きている」の反対が「死んだ」だとして、自分や周りの人が死んでも何も変わりません。せいぜい葬儀屋の収益があって、周りに居た限られた人が何らかの感情を抱く程度でしょう。
論点がずれてしまいましたので元に戻すと、
生きている事を証明するにはまず、生きている事の定義をしなければいけません。
「大会議」に書いてあるのは要するに自分の意思があるかどうか、と言う事でしょう。
(では、虫は意思で動いているのか?本能で動いているのか?本能ならば生きていると言わないのか。・・・果てしないので止めますが、やはり定義が必要です。)
意思とは何か・・・これも答えがありません。
1秒前まで自分の意思で行動していた事を全否定する行動を自分の「意思」でとりえます。
生きている事は大した問題ではないのです。
では、我々は今後どうすべきか。
極端な話、現状皆自分の利益(幸福)の為だけに生きています。
人の為に・・・と言うのは結局自分の為なんです。
歴史とやらに名を残した人も、ボランティア活動が好きで皆に慕われている人も。分かりやすく言うと、嫌な言い方ですが、人に有難がられる事に自分の幸福を求めていると言えます。ボランティア・・・この言葉を聞いただけで虫唾が走る人もいるでしょう。ボランティアに行く事でCO2が余分に排出され地球に良くないかもしれません。
・・・きりが無いんです。
どうすればいいのか。
人の迷惑にならないと言える範囲で自分の幸福を最大限に求める。
しょぼいですが、これです。
残念ながら最大多数の最大幸福を求める事しかできません。
ガリレオが人から憎まれ死刑になったのは、悪だからです。
マンモスの肉を食って欲が満たされるのも、ガリレオさん達のお陰で科学が発展し色々な楽しみを享受できるのも何の違いもありません。
繰り返しになりますが、
生きている事に大した意味は有りません。
生きたいなら最大多数の最大幸福を目標にどうぞ。
おおむね共感できます。
そもそも生きるとは?という点も、医学上・法律上は定義があるものの、それも便宜上のものであって本質的な解とは断言できませんからねー。
「最大多数の最大幸福」と言えばベンサムですね。釈迦に説法かもしれませんが、そのことを政府と個人の自由との関係という文脈で論を発展させたのがJSミルであって、その思想は、今日の社会科学のバックボーンとなっていますよね。
いろいろ考えてもわからないことが多いこの問題ですが、個人的には凡人であることを前提とすれば、私は、やはり先人がどう考えてきたか?という点から始める方が、より正解に近づいて行けるような気もしてきます。
コメントありがとうございます。
考えれば考えるほど、分からなくなりますね…(苦笑)でも当たり前かもしれません。先人がずっと考えてきて、なかなか答えが見つからないのに、私のような人間が簡単に答えを見つけられるわけがありません。
でもそれでもいいのかなと思います。日常生活に支障が出ない程度に妄想したいと思います!