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善光寺への道すがら、「焼きおやき」のゲシュタルト崩壊について考える

食べ物・食事処
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宿泊先のホテルから善光寺まで歩いていたその途中、ふと手書きの文字が目に留まった。

「名物 焼きおやき」

立ち止まった理由は、匂いでも空腹でもない。脳が、わずかに引っかかったからだ。

そもそも、おやきとは何か。

長野県の郷土食で、小麦粉(地域によってはそば粉)を練った生地に、野沢菜や茄子などの具を包み、焼いたり蒸したりして作る。

かつては囲炉裏の灰で焼かれ、農作業の合間に食べられてきた、きわめて生活感の強い食べ物である。

その「おやき」という言葉には、すでに「焼き」が含まれている。

それなのに、焼きおやき。

直訳すれば、「焼いた焼き」、あるいは、「焼いていることを、念には念を入れて強調した焼き物」。

焼き不足を疑われる時代でも来たのだろうか。

考え始めると、妙なことに気づく。

今どきのおやきは、蒸されているものが多い。それでも誰も、「これは蒸しているから“おむし”だ」とは言わない。

蒸されていても、当然の顔でおやきを名乗る。ここには、名前と実体のズレがある。

普通なら、どこかで誰かが言い出しそうなものだ。

「いや、これ焼いてないですよね?」

「名前、見直した方がよくないですか?」

しかし、誰も言わない。というより、誰も困っていない。

そして、その了解を前提に現れるのがこの「焼きおやき」だ。

おやきは必ずしも焼いていない。それを、作り手も、売り手も、食べ手も、なんとなく知っている。

だからこそ、「これはちゃんと焼いています」と、あえて言葉にする必要が生まれる。

焼きおやきという言葉は、おやきという存在が、すでに少しおかしいことを、ちゃんと理解したうえで使われている。

ここでようやく腑に落ちる。

おやきは、焼き物でも蒸し物でもない。

小麦料理でも、惣菜でも、饅頭でもない。

おやきとは、長野という土地で、山に囲まれた暮らしの中で、囲炉裏のそばや、農作業の合間に食べられてきた、その記憶をまるごと引き受けた呼び名なのだ。

同じものを別の土地で出せば、おそらく「蒸しパン」や「惣菜パン」と呼ばれる。

だが長野で出されれば、それは迷いなく「おやき」になる。

おやきは、なかなか大胆な存在である。

自分が焼かれていない可能性を、皆が知っていて、それでも「焼き」を名乗り続けている。

名前が本質を説明していない。ときには、堂々と裏切っている。それなのに、何の問題も起きない。

「意味とは用法である」

哲学者ウィトゲンシュタインの言葉を借りれば、言葉の意味は、定義によってではなく、どう使われ、どう共有されているかによって決まる。

おやきは、「何であるか」ではなく、「どう呼ばれ、どう扱われてきたか」で存在している。

だから「焼きおやき」という言葉も、論理的には少し変でも感覚的にはなぜか正しい。

ズレていることを知ったうえで、そのズレごと受け入れ、今日も普通に売られている。

結局のところ、おやきを定義しようとすると、うまくいかない。

焼いても、蒸しても、説明できなくても、それでもおやきは、おやきであり続ける。

だから最後に残る答えは、とても単純だ。

「おやきとは、おやきである」

このどうしようもなさが、この食べ物を、少しだけ哲学的にしているのだ。

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このブログを書いている人
くま☆

薬局で働く薬剤師
「薬局のオモテとウラ」(2006~)
日経DI:熊谷信の「薬剤師的にどうでしょう」連載中(2009~)
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